日本人は公の場での発言ができない。しないのではない。できないのだ。
やらないのではなく、ただ単にできないだけ
根っからのムラ社会である日本人は自己主張などしてはいけないのだ。穏やかな池に波をたててはいけないのだ。1人はみんなのために、みんなはみんなのために!
耐えて耐えて苦しんで苦しんで・・・。これのどこが美談なのだろうか?ムラ社会については別の機会にしよう。
海外の基準が正しいとも思わない
海外では発言をしない=個人がない、思考がないと捉えられる。
私は数ヶ月の間、イギリスのハルという街で世界中の人たちと集団生活をしていたことがある。ヨーロッパ、アジア、南米などから社会貢献(国際協力)の名の下に人が集まっているところだ。
そこでチームメイトたちとのMTで「どうでもいいこと(重要ではないこと)」で話し合いが始まったので、好きにやらせておこうと隣のブラジル人と世間話をしていたら「Satoshiはどう思うの?自己主張してよ!」とハンガリー人の女の子に言われたことがある。
「俺の意見はそれについて議論していることがムダであるということだよ。君たちがAかBかと議論していることについてAでもBでも大した問題じゃない。僕は最初にその議論は必要なのか?と聞いたよね。でも君たちはその議論をしたいんだろ?だから議論すべき○○についての話が始まったら参加するよ。」
なんでも発言すればいいのではない。それは単細胞のやることだ。
発言しない理由にも種類がある
日本人の往々にしてある理由が「周りの目を気にして発言しない」である。
発言しない理由は他にもあるはずだ。例えば事例として出した時のように「発言する理由がない」「発言する必要がない」これは空気を読むにも繋がるので後述する。
発言を受け取る側に発言を受け取れるだけの状態が出来ていない場合。これも発言するだけムダである。なぜなら、このような状況では相手は己の物差しで測ることができる「自分が聞きたい発言、自分が想定している正の発言」しか求めていないからだ。このような相手に何かを言ってもムダである。
もちろん荒波をたてることが目的であれば発言する理由も生まれる。
空気を読むを良いようにしか解釈しない人たち
空気を読んで発言をしないのだ。というのは理由として言葉が足りていない。言葉にはしていないが、各々が感じ取り共通認識として発言が求めていない空気があるので、その空気を読んで発言しないのが正しい。
発言を求められているのに発言をしないのは、空気を読んでいるどころか空気を読めていない。
発言を求められていない状況で発言するのも空気を読めていない。このような状況が「発言する必要がない」である。
例えばセミナーや講演会での質疑応答の時間。ここで求められている質問(発言)は個人的な質問よりも一般化された内容であるべきだ。つまり他の参加者にとってもメリットがある内容を聞くべきである。
参加している人たちが専門家なら専門的な質問をしてもいいだろう。しかし専門家が集まっているわけでもないのに、専門的な質問をしたところで他の参加者のメリットがない。聞いている人が、その話のレベルにいないのだから無価値だ。
小学生に学術講演を聞かせてどうするのだ?ほかにも限られた時間のかなでダラダラと質問するのも空気が読めていない。
発言とは己の意志、思考、価値観を元に意見を言葉にすること
日本人は発言しないのではない。発言できないのだ。マスメディアに踊らされ、他人に踊らされ、自分で思考することを手放しすぎたのだ。
思考を止めた人間から出る発言は右から来た言葉を左に流すだけ、そこに本人のフィルターは入っていない。
思考することをやめたのだから、意志も価値観も存在しようがない。あるように思えてもそれは別の誰かのコピーである。要するにパチもんだ。
そんな人間に「発言しろ!」といっても無理な話である。ましてや「周りからどう思われるか?」が最初の基準となる日本文化では難しさはさらに増す。
解決方法は簡単。世間体を気にせず、空気を読むことをやめる。
日本人は能力を出し切れていない。僕もそう思う。結局のところバランスを取るのがド下手なのだ。
空気を読みつつ発言をすればいい。それが難しいのなら、まず選択すべきは「空気を読まずに発言する」ことだ。
日本人が能力を出し切れないのは「世間体を気にする」からだと私は考えている。だから世間体なんて捨ててしまえば良い。
世間体を気にせずに言いたいことをいい。やりたいことをやればいい。平和とは究極の崩壊だと思う。
自己主張をして、我を出す、建設的な議論を好む国。日本。そうなってくれることを願う。個人の時代では、そうならなければ終わる。
PS:エジプトぐらい口喧嘩しまくる文化になっても面白い。
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