ケーブルテレビで放送されている海外のサッカー情報「foot」。先週の金曜日の番組内で、スペインのサッカー番組を紹介していた。そこで出演者の方が言った言葉に、非常に共感をしたので紹介したい。
日本では「批判=侮辱」に捉える。だから自由な討論が難しい。
これは「意見を言う」「主張する」のを避けるという悪循環を進めている要因になっていると思う。良くも悪くも場の空気を読む(正確には場の空気を壊さない。本当に場の空気が読めていれば主張もするはずなので)。
批判されると、いとも簡単に冷静さを失う。これでは自由な討論はできるはずがない。
討論とは?
ある事柄について意見を出し合って議論をたたかわせること。
自分はイギリスにいた時に、自由な討論を経験した。その場にいる人たちが、自分の意見を主張し合い、討論が白熱した。もちろん違うと思う意見は違うと主張するし、批判もする。しかし、ディスカッションが終われば、お互いにそれまで通り仲良くする。というか討論の最中も憎んでいるわけではなく、仲がいいのだ。
相手の意見を受け入れるし尊重もする。その上で、相手の意見に対して、自分の意見と異なる部分を伝え、相手の意見を求める。
つまり、討論での意見や発言は相手を憎んでしているわけではない。なぜなら自分が正しいということを、あいてに認めさせることが目的でもないからだ。
自分の考えをぶつけ、相手の考えを聞くことによって、考えや理解が深まるのが、討論だと私は思っている。
批判とは?
物事に検討を加えて、判定・評価すること。人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。
論じること。論理的に自分の考えや意見を伝える、そして相手の意見を求める。
そして、正しい方向(またはより良い方向)へ進むことを目的にしている。
侮辱とは?
相手を軽んじ、はずかしめること。見下して、名誉などを傷つけること。
これは意見を言っているのでない。差別と同じ。右と左に 分けているのではなく、上と下に分けている。自分の意見に対しての相手の意見を求めていない。
食べ物の好き嫌いを言っているのと変わらない。
極端な例を挙げるとすれば「自分は納豆が嫌いだ。なぜなら腐っているから匂いも臭いし、ネバネバしていて気持ちが悪い」と主張しているのと変わらない。この時に「納豆」を侮辱しているだろうか?
この批判の対象が「人」「思考」になった瞬間に、日本では「侮辱」という過激な捉え方をする。急に話の論点がズレて擁護し始めたりする。これでは討論は成り立たない。
日本人は「本質」「本意」といってものを理解するのが苦手なのかもしれない。
日本人は「建設的な喧嘩」ができない。
これは個人的な結論。もちろん討論ができる人もいる。だが圧倒的に人数が少ない。諦めたら終わりと言われるかもしれないが、自分はかなり諦めている部分がある。海外経験(旅行は含まれない)がある人で「この人となら討論できそう」と思う人にしか討論を持ち出さない。
日本文化では「喧嘩」に種類が1つしかない。討論的な喧嘩を認識することができない。恐らく「批判」「侮辱」の区別がつかない人が多いのではないだろうか。
意見を言い合ったあとに気分を害してストレスを感じているとしたら、それは自分が討論できていなかった証拠だ。
日本人は繊細と言えば聞こえはいいかもしれないが、かなりメンドクサイ人種である。
そして自分も根っからの日本人であり、欧州文化に憧れ、日本文化の嫌なところを切り離したいと願っている。
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